学生の備忘録なブログ

日々のことを忘れないためのブログです。一日一成果物も目標。技術系はQiitaにあげるように変更しました。

ネットフリックスで色々観た

「私立探偵ダークジェントリー」

www.netflix.com

ロード・オブ・ザ・リングのフロド役で有名なイライジャ・ウッドが主人公。

ストーリーは謎が謎を呼ぶ、推理アクション?

自分は見たことないが、「ツイン・ピークス」が起源のものらしい。

テレビドラマ「トリック」「SPEC」「熱海の捜査官」などが同じタイプであると思う。

謎が謎を呼ぶこういったタイプのドラマは自分は大好物なのだが、これも面白かった。

全体論探偵、全体論暗殺者などを自称する登場人物たちが出てくる。

このタイプのストーリーは、謎を作るために因果関係が明確に説明できない因果関係が起きる。それを登場人物のセリフで自分語りさせてしまうのは面白かった。

全体論的にAとBはつながっている」という具合に視聴者に謎を謎のままに受け入れさせて、物語の最後にその因果関係を説明する。

ただ、こういったタイプは途中で謎にうんざりして見るのをやめてしまいがちだ。この作品はもうちょっとご褒美的なものを増やしてもいいと思った。

日本のドラマは小ネタを挟んでくれるので、おやつ感覚で気分をつなぐことができるが、Netflixは全世界的に配信するのでそういった小ネタ(特にローカルネタ)を仕込みにくいのかもしれない。

ただ、そういったときに美少女を画面に入れてなんとか画をもたせるということを日本だとしがちだが、そんなことはなく結構頑張っていた印象がある。

ラブ、デス&ロボット

オムニバス形式で「ラブ」「デス」「ロボット」というテーマで様々な作品が短くまとめられている。ぶっちゃけただのSFもある。

一番最初の人形ロボットが荒廃した地上を歩くとき、"鉄の足が頭蓋を踏み抜き、そこからなめるようなカメラアングルでロボットの顔"という「ターミネーター」オマージュをしていて心を掴まれた。

www.netflix.com

許されざるもの

www.netflix.com

クリント・イーストウッドって見るたびにしわくちゃでずっと老け顔の印象があった。しかし、スクリーンのなかではめちゃくちゃ渋い顔をする。あの顔の深いシワは深い憂いがあらわれたものなんだと思わせる。しびれた。

  • 世間一般にも評価が高いらしい

    「第65回アカデミー賞」では9部門にノミネート

それまでも西部劇をやってきたクリント・イーストウッドは、それまではあまり評価されていなかったらしい。

と言うよりも、西部劇は下に見られがちのようだ。1900年代初頭に"ホースオペラ"というB級西部劇の蔑称があり、それを脱却するリアル志向の映画が1950年代までに作られたらしい。しかし本当の西部の歴史を知るものが少なくなるにつれリアル志向としてのエネルギーは再び失われた感がある。(推測)

西部劇=カウボーイというものは、西部開拓時代つまり19世紀の1860年~1890年を指すものだ。 *1

こんな短い間の出来事をこんなにも話題にするのは、その出来事がアメリカ人にとって象徴的だからだ。

開拓者精神、自警団意識(ヴィジランティズム)、カウボーイ、賞金稼ぎ...

こういったものが表す精神が現在も重要だと感じるから何度もそれを思い出すために西部劇を見る。(アメリカの憲法が銃規制をしないのも同じ理由でしょう)

1993年という年に公開されたこの作品に対してそれまでのクリント・イーストウッドのフィルモグラフィでは最高の評価で迎えられられたのも、むしろ現実ではいままでの価値観が通用しなくなったから懐古するという意味で参照するということも含めているのだと勝手に思っています。

追記

評論はこの記事が面白かったです。

www.reviewanrose.tokyo

確かにそれまでの西部劇の脱構築(脱構築ではなくアンチテーゼ?否定?)をしているという構造でした。

途中で伝説のガンマンの逸話を徹底的に否定する保安官のシーンも、それはそっくりそのまま西部劇というアメリカの神話を否定するというメタ的な構図になっていました。目的のカウボーイを殺すときに手に汗握る銃撃戦というのもありませんでした。不意打ちで、ふたりとも丸腰でした。これもそれまでの過剰に表現されたカウボーイ像とはかけ離れていました。

ただリアル志向というわけではなく、徹底的にかっこよさを否定するという点が意図的でした。リアル志向でもかっこよくしようと思えばいくらでもできるからです。

特に評論の中で面白かったのは、ラストの復讐の場面です。

ラストの復讐の場面ではそれまでの否定の文脈からはずれて、むしろオールドタイプの西部劇をやるという構図になっているという指摘はたしかにそうだなと思いました。

それまでの否定が嘘のようにカウボーイをします。

物語的には徹底的に西部劇的な魅力を否定するので視聴者はお預けを喰らっていますから、すごいカタルシスのあるラストシーンです。

しかしではこれまでのテーマと思われていたアメリカの神話「西部劇」を否定する、終わらせるという文脈から外れたラストシーンはどう解釈するべきなのでしょうか。

先の評論では、「西部劇の神話により、現在にまで続く問題が起きている。しかしその問題を解決するためにその西部劇的な正義を貫徹する」ということだと解釈されていると私は解釈しました。

クリント・イーストウッドは保守です。(アメリカの保守は基本的には先に述べたカウボーイ精神の延長線上にある。)

私はクリント・イーストウッドが西部劇というものを丁重に葬るために、最後に華をもたせたのではないかと思いました。

やっぱり保守なのでしょうね。クリント・イーストウッドは。